貧富の差・経済格差が戦争を支持する動機や原因になる『お金の問題は戦争を生む』
前回、経済とお金の奪い合いで戦争が起こる?戦前の日本の経済成長と権益拡大は欧米諸国との対立を生んだでも述べたように、国際的な経済やお金の問題でも戦争が起こる原因になりますが、国民の貧富の差や経済格差も、戦争を支持する動機や原因になります。
第二次世界大戦を国民が一致団結して戦ったのも、この貧富の差や経済格差が影響しており、当時の日本国内は、今では考えられないほどの問題を抱えていたのです。
そこで今回は、日本国民がなぜあの残酷で日本を崩壊させるほどの戦争を支持した理由や、貧富の差を生み出した原因などを見ていきます。
貧富の差・経済格差は戦争を支持する考えを生む
第二次世界大戦前の日本は、貧富の差が非常に大きく、現在以上の格差社会でした。
これは、戦争を支持する日本国民の考えを生むことになります。
明治維新後の日本は、急激に工業化、経済成長を遂げましたが、国全体を見れば貧しい農村社会でした。
国民のほとんどが農業を就業しており貧しい生活を送っていた
江戸時代の時は人口の90%、1930年には就業人口2900万人のうち1370万人が農業をしていました。
1945年でも農業人口は就業人口の50%近くもあり、農業はとても多くの人が就業している職種だったのです。
しかし、農業は収入も低くいため、その貧しい生活のはけ口として、軍部が人気を集めるようになっており、軍部が勢力を伸ばせば、農村を貧しい生活から救ってくれると、錯覚を抱く人が大勢いるほど、都市部(お金持ち)の人たちと格差があったのです。
都市部に生活している人たちは、現在の私たちと変わらないほどの生活を送っていました。
しかし、農村に住んでいる人たちは、昭和に入っても、上下水道の設備やガス・電気などのインフラ設備が十分に整っていなく、井戸から水を汲み上げ、蒔きを集め火を起こし、白熱灯だけで過ごすような生活を送るほどの格差があったのです。
世界大恐慌や天災がますます農家を苦しめる
また、農家の経済基盤は非常に弱く、景気や天候などの影響で生活が困難になることが多く、特に世界大恐慌で農村は大きな打撃を受けました。
1930年に物価が20〜30%下落しましたが、農産物の物価の下落はそれ以上で、農家の1戸平均の借金が平均年収を上回るほどの影響がありました。
さらに、東北地方の冷害が起きた時も大きな打撃を受け、一家心中や娘の身売りなどが次々と起こるようになります。
5.15事件や2.26事件に走った将校たちも、この農村の現状を動機に挙げているほどです。
都市部へ出稼ぎに行った人の多くも貧困に喘いでいた
また、農村だけでなく、農村から都市部に出稼ぎに行った人たちも、思うように仕事に就けず、普通の生活ができない貧困層が激増していました。
都市部の多くにスラム街(貧民街)ができていたほどで、衛生状態も悪く、残飯などを食べて生活していました。
これらの貧富の差や格差社会により、社会の不満が増加し、その不満を解消してくれる存在として軍部が支持されるようになり、同時に戦争が支持されるようになっていったわけです。
一族経営の財閥が国内の富の大半を占めていた
貧しい生活を送る人が増える一方で、財閥が巨大な富を独占していました。
当時の財閥は、株式などの公開度合いが少なく、一族経営という意味合いが強い存在でした。
戦前の日本経済は、一部の財閥が産業全体を支配しており、その中でも、三井、三菱、住友、安田が強い権力を握っていました。
終戦時には、上記の4大財閥だけで、全国の資本金の50%近くを占めており、資産額はそれよりも高い比率を占めていました。
欧米各国に負けないために政府が財閥を支援した
これらの財閥は、鎖国の解除(開国)と明治維新が現在の日本経済の基盤を作った『日本は今も昔も輸出大国』の時代に、欧米各国に負けないような企業をつくりあげる必要がありました。
そこで、特定の商人を優遇するために政府は支援をしました。
政府の支援を受けた商人たちは、日本に新しい産業を興すために協力すると同時に特権も得ることになり、財閥という存在ができていきました。
三菱財閥は運輸業を支援され繁栄した
三菱財閥は船会社としてスタートします。
明治初期の日本の運送業は、外国商船に支配されていました。
それをどうにかして阻止するために、政府は三菱に政府所有の大量の船舶を譲渡し、三菱の運輸業を支援しました。
三井家が貿易会社を設立し三井物産は誕生した
他には、明治初期の日本では、生糸が主な輸出品でしたが、生糸を扱う日本の業者は力が弱いところばかりで、外国の商社は、日本の生糸市場を支配していました。
外国の商社のやり方に危機感を抱いた政府は、三井財閥に助けを求め、その意を汲んで江戸の大商人三井家が大手の貿易会社をつくります。
これが、現在でも大手企業の名で知られている三井物産の始まりなのです。
普通の人の10,000倍もの収入を得ていた財閥の一族
財閥と政府とうまく結びつきながら巨大化していき、昭和初期には国内の富の大半を占めるような財力を持つようになりました。
1927年の長者番付では、1位から8位まで、三菱、三井の一族が占めています。
1位の三菱の社長である岩崎久彌は約430万円もの年収があり、当時の労働者の日給が1円〜2円の頃なので、普通の人の10,000倍近い収入を得ていました。
現在のお金の価値で表すと、サラリーマンの平均年収が大体500万円前後なので、500億円ほどです。
しかも、戦前の財閥の場合は、このような高収入を一族の皆が得ていたのです。
さらに、当時の所得税は一律8%だったので、高い税金を取られることもなくそのまま私財として蓄積されていきます。
国民の不満は財閥にも向けられテロの標的にもなる
当時の日本国民にとって、財閥の存在は目の敵でした。
そのため、財閥の人がテロの標的にされることもありました。
有名なテロ事件として、安田財閥の創始者安田善次郎は、右翼の活動家に暗殺されました。
また、1932年に起きた右翼団体の血盟団によるテロで、元蔵相の井上準之助と三井財閥の総帥団琢磨は、暗殺されました。
国民の風当たりを鎮めようと努力するが貧富の差は埋まらない
財閥もテロなどにより、世間の風当たりは察知していて、慈善活動を行ったり、役員の報酬を引き下げたりしました。
役員の退職金や給与を大幅に引き下げたり、ボーナスの減額などを実施しました。
それでも、財閥と庶民の貧富の差、経済格差は大きく、不満は膨らみ続け、そのはけ口として軍部を支持し、戦争を支持した動機になったのです。
まとめ
- 貧富の差・経済格差は戦争を支持する考えを生む
国民のほとんどが農業を就業しており貧しい生活を送っていた
世界大恐慌や天災がますます農家を苦しめる
都市部へ出稼ぎに行った人の多くも貧困に喘いでいた - 一族経営の財閥が国内の富の大半を占めていた
欧米各国に負けないために政府が財閥を支援した
三菱財閥は運輸業を支援され繁栄した
三井家が貿易会社を設立し三井物産は誕生した
普通の人の10,000倍もの収入を得ていた財閥の一族
国民の不満は財閥にも向けられテロの標的にもなる
国民の風当たりを鎮めようと努力するが貧富の差は埋まらない