ITバブルの発生と崩壊時の株価の異常さとその影に隠れて育つリーマンショックの芽

今となっては当たり前のように語られる『ITバブルの発生と崩壊』。
しかし、当時の人々は、その新しい新時代の到来とも言えるインターネットというイノベーションに、投資家だけでなく、それに関係のない人々までも熱狂の渦に巻き込みました。
それほどまでに革新的な『IT(インターネット・テクノロジー)』という存在は、当時の投資家たちには理解が難しく、それでも我先にと株式市場に投資金が無意味に流れていき、そして崩壊していきました。
その影に隠れてアメリカでは、とんでもない銀行法の改正が行われており、ITバブルの崩壊を遥かに超えるほどの金融危機、経済危機を巻き起こすことになった、リーマンショックの芽が育っていたのです。
IT(インターネット・テクノロジー)は1990年代半ばから急速に普及
『インターネット』現在では子供でも知っているごく当たり前の単語ですが、1980年代に遡ると、一部の専門技術者の間でしか使われていない専門用語でした。
アメリカの国防総省が始めたネットワーク研究が、やがて商用・学術用に展開されるようになり、1990年代半ばからビジネス利用が拡大し、パソコンの普及とも合わさり一般家庭にも急速に普及していきました。
我先にとITを理解しない人々までが投資を行いITバブルを形成した
インターネットとパソコンの普及が広がるにつれて、アメリカを中心に、それを利用したネットショッピングや情報通信などのビジネスモデルへの期待感が、株式市場を熱狂の渦へと巻き込むこととなります。
投資家の間では、インターネットを利用した情報技術やサービスを提供する企業が、具体的な商機を見い出し、株価が上がる前に買っておこうとする動きが巻き起こっていました。
これが、IT(インターネット・テクノロジー)バブルの姿です。
当時の投資家たちには、情報専門用語がびっしり並んだ企業の事業計画書は難解で、理解する前にブームに飛び乗り投資をしていました。
新時代の到来である新たなイノベーションへの投資金が無謀な企業にまで流れ込む
ITバブルは別名ドッド・コム・バブルとも呼ばれ、熱狂するマネーゲームによる投資金は、インターネット関連の新興企業が集まるナスダック市場に大量に流れ込み、総合指数を押し上げ続けました。
利益をまだ出していない、出せるかもわからない企業でも、「インターネット業務を開始」と一声上げれば、莫大な投資金が流れ込んでくるようなバブルが押し寄せたのです。
このような状況になると、無謀なベンチャー企業の設立が増え、アメリカのシリコンバレーを中心に、新興企業が次々に現れていきました。
ただ、何の根拠もなくITバブルが起こったわけではありません。
これらの背景には、イノベーションはバブルを起こす『バブルの歴史、鉄道バブルと自動車バブル』と同じように、インターネットが人々の生活に定着することで、それを利用したビジネスが発展していくという、新時代の到来への期待があったのです。
鉄道バブル、自動車バブルと同じく、インターネットを駆使する企業すべてが成功することはありませんでしたが、一部のIT企業に関しては、21世紀を牽引する企業へと成長するという期待は、確かに事実となりました。
Apple、Google、Amazon、Facebookなどが、これほどまでの大企業になれたのは、当時の投資家たちの期待があってのことで、一部の投資家は、この予想を的中させたのかもしれません。
ナスダック総合指数は1996年頃から2000年にかけて約5倍になる
1996年頃までは、約1000ポイントほどで推移していたナスダック総合指数は、ITバブルにより、以下のように上昇しました。
- 1998年 7月:2000ポイント突破
- 1999年11月:3000ポイント突破
- 1999年12月:4000ポイント突破
- 2000年 3月:5000ポイント突破
1999年の年間上昇率は約86%と急騰したのです。
ITバブル崩壊により2000年から2002年にかけて株価は77.9%下落
しかし、実体のない株価上昇は、いずれ崩壊に向かうことは明白でした。
2000年3月10日の5048.62ポイントをピークに、株価は急落していきます。
2002年10月9日に底値である1114.14ポイントをつけ、ピーク時から77.9%の下落率を記録したのでした。
これは、リーマンショック時に記録した下落率よりも大きい暴落となったのです。
株価急落により、実績を生み出せず資金調達に走ったベンチャー企業は次々に破産し、ITバブルは崩壊しました。
低迷していた1990年代の日本にもITバブルが到来する
アメリカがITバブルの熱狂に包まれている頃、日本でもその影響を受けて経済や金融市場が動いていました。
株式・不動産バブル崩壊から巨額の不良債権処理に頭を悩ませ、資本主義の姿を見失っていた1990年代の日本にとって、当時のアメリカ経済は明るに満ちているように映っていました。
1980年代の輝かしい日本経済モデルから生まれ変わり、グローバル・スタンダードを取り入れなければいけないという思惑の下から、アメリカのようなビジネスモデルこそが世界標準であるという思想が人々の支持を得るようになってきました。
積極的にアメリカのビジネスモデルを取り入れ、低迷する日本経済を立て直そうとする動きが活発化していき、日本政府も、情報技術の発展やグローバル化を進める政策を行うようになります。
1999年に政府も動きITへの期待を膨らませる
1999年に小渕政権が発表した、ミレニアム・プロジェクトで、情報化・高齢化・環境対応という3本柱を軸にプロジェクトを構築する方針を打ち出します。
その中でも、新たな産業としての通信産業や情報サービス業は、半導体事業で力を失いつつあった日本経済の柱になるとして、期待が寄せられました。
日本の株式市場でもIT企業が多く誕生しバブルを形成・崩壊した
一方、市場では、1990年代半ばから、インターネットを利用したIT企業が数多く誕生していました。
楽天、ソフトバンク、ヤフージャパン、ライブドアなどはその代表例です。
しかし、日本の通信・情報産業が急速に拡大していったのは事実ですが、社名にe(エレクトロニック)やi(インフォメーション)を付けただけで株価が上昇するなど、アメリカと同じような、実体のないITバブルが起こったのです。
アメリカのITバブル崩壊が起こると、日本も同様に、株価の下落と新興企業の多くが破綻していきました。
光通信はITバブルの典型例となってしまった
日本でのITバブル崩壊の象徴とも言える企業が、1998年に設立された光通信です。
携帯電話やPHSの普及の波に乗り急拡大した企業であり、株式市場で代表的な投機資金が集まった銘柄でした。
経営実態の不透明感で、1株24万円台だった株価は、3か月間で8000円台にまで暴落し、他のIT企業の株価や経営まで影響を与えるほどの衝撃でした。
ITバブル崩壊でピーク時の株価から1年足らずで株価指数は約40%下落
当時の日経平均株価も、1999年初め頃に13000円台だった指数は、ITバブルの波に乗り、2000年4月には21000円近くにまで急騰しました。
そして、バブル崩壊で、IT企業株の下落とともに大暴落し、ピーク時の株価指数から年末には約40%も下落しました。
その流れに乗ってしまい、2001年9月には、10000万円台を割り込んでしまったのです。
このようなITバブルと崩壊の背景には、金融業界が投資家の過剰な投機を誘発する役割を担ってしまったことなど、アメリカのビジネスモデルの悪い部分まで真似をしてしまったとも言える経済現象だったのです。
ITバブルの陰に隠れて100年に一度の金融危機の芽は育っていた
株式市場がITバブルに沸いていた頃、アメリカでは、もう一つのバブルの芽が育っていました。
それは、商業銀行と投資銀行の統合が法律で解禁されたことです。
商業銀行は、以前のように融資拡大ではなく、投資銀行のビジネスに将来を託す方向に転換しようとしていました。
投資銀行は、M&A(企業の合併買収)などの業務提携における優位性をさらに伸ばし、商業銀行並みの融資力を持ちたいとの思惑がありました。
そこで両者は急接近することになるのです。
商業銀行と投資銀行の合併が誰にも止めることのできない巨大な金融機関を誕生させる
1933年に制定された、商業銀行と投資銀行の分離を規定したアメリカの銀行法である、グラス・スティーガル法のため、両者の業務は分離されていました。
しかし、この法律は、1999年に制定された、金融サービス近代化法であるグラム・リーチ・ブライリー法で、商業銀行と投資銀行の分離が解除されることになります。
すなわち、銀行持ち株会社が他の金融機関の所有を認められることになったのです。
この背景には、1998年10月に発表された、商業銀行の持ち株会社である、シティコープと保険会社であるトラベラーズとの合併を、事後的に合法化する目的で行われた法改正なのです。
ソロモン・スミス・バーニー証券などを傘下にもつトラベラーズとシティコープが合併することにより、銀行、証券、保険、資産管理会社など、複数の金融業務を兼任する世界最大級のシティグループが誕生したのです。
そして、投資銀行の兼業を待ちわびていた他の商業銀行の攻勢は加速していきます。
シティコープのライバルであったチェース・マンハッタンは、イギリスのロバート・フレミング買収し、さらに、投資銀行業務を急拡大させていた、JPモルガンも買収したのです。
これも、商業銀行と投資銀行を統合した世界最大級の巨大金融機関となったのです。
米大手銀行により信用リスクという金融商品が誕生し発展していく
融資と有価証券の両方の市場の主導権を手にした、米大手銀行は、新たに信用リスクという金融商品を販売するビジネスを開拓していきました。
これは、自己資本比率の向上により自身で保有する資産はできるだけ抑制する必要があることや、手数料ビジネスを拡大させてROE(株主資本収益率)を投資銀行並みに高めるよう株主から指示されていたことなどが背景にあります。
このビジネスの収益源となったのが、クレジット・デリバティブや証券化商品などの、従来のモノを工夫した金融商品でした。
クレジット・デリバティブや証券化商品は信用リスクを低下させる金融商品として販売されていた
クレジット・デリバティブズとは、貸付債権や社債の信用リスクを、合意されたリスク・プレミアムの支払いを通じて移転する金融派生商品のことです。
1980年代から開発されていたデリバティブズを、社債や融資を現資産とする取引に拡大した取引であり、代表的なものがCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)でした。
CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)とは、社債や国債、貸付債権などの信用リスクに対する保険の役割を果たす、オプション形態の取引です。
これは、大手銀行がバランスシートを軽減し、信用リスクの集中度を低下させる機能を持っていると思われていました。
証券化商品は、法人が抱える売掛債権や不動産などを、資産・負債でありながらバランスシートに計上せず、財務の柔軟性を確保する役割を果たすと思われていました。
その一方で、保険会社やファンドなどの機関投資家に新たな資産クラスを提供するという、それまでにないビジネスとして発展していきました。
急速に発展していった新しい金融派生商品が100年に一度の金融危機を生む
これらの新しい金融商品の始まりは、前回ご紹介した『投資拡大と金融危機・崩壊は繰り返す?新興国の累積債務問題から証券化時代が始まった』でもお伝えした通り、1980年代頃に初めて開発され、商業銀行と投資銀行との合併により、急速に発展していきました。
新しい経済時代の幕開けにふさわしい業務展開のように思われましたが、この未だかつてないほどの信用の拡大は、新たなバブルを膨らまし続け、世界中を激動の渦に巻き込む、100年に一度と言われたサブプライムローン問題、リーマンショックを招くことになったのです。
まとめ
- IT(インターネット・テクノロジー)は1990年代半ばから急速に普及
我先にとITを理解しない人々までが投資を行いITバブルを形成した
新時代の到来である新たなイノベーションへの投資金が無謀な企業にまで流れ込む - ナスダック総合指数は1996年頃から2000年にかけて約5倍になる
ITバブル崩壊により2000年から2002年にかけて株価は77.9%下落 - 低迷していた1990年代の日本にもITバブルが到来する
1999年に政府も動きITへの期待を膨らませる
日本の株式市場でもIT企業が多く誕生しバブルを形成・崩壊した
光通信はITバブルの典型例となってしまった
ITバブル崩壊でピーク時の株価から1年足らずで株価指数は約40%下落 - ITバブルの陰に隠れて100年に一度の金融危機の芽は育っていた
商業銀行と投資銀行の合併が誰にも止めることのできない巨大な金融機関を誕生させる - 米大手銀行により信用リスクという金融商品が誕生し発展していく
クレジット・デリバティブや証券化商品は信用リスクを低下させる金融商品として販売されていた
急速に発展していった新しい金融派生商品が100年に一度の金融危機を生む