約1300年前に日本の通貨制度は一度崩壊した?『お金の起源とそれが衰退した要因』

約1300年前に日本の通貨制度は一度崩壊した?『お金の起源とそれが衰退した要因』

あまり知られていない話なのですが、実は日本における貨幣(通貨)の普及は非常に遅く、しっかりと流通し始めたのは鎌倉時代になってからなのです。

その時代になるまで貨幣の普及が全くなかったのかといえば、そうではありません。

現在から遡ること約1300年前の飛鳥時代末期から奈良時代にかけて、貨幣が発行され、平安時代の958年まで、一時的ではありますが、貨幣の普及が広まった時代があったのです。

その間、朝廷は様々な方策を行いましたが、それも虚しく貨幣の普及は衰退していき、やがて米と布経済に逆戻りしてしまった歴史があります。
※朝廷とは現在でいう政府のようなものです。

そこで今回は、日本の通貨の起源と衰退してしまった原因を見ていきたいと思います。

708年の和同開珎から日本の通貨の歴史は始まった

日本における貨幣の歴史は、『和同開珎(わどうかいほう)』から始まったとされています。

それ以前にも、7世紀後半に『富本銭(ふほんせん)』が発行されていたと言われていますが、詳しいことは判明していないで、朝廷が貨幣の鋳造(ちゅうぞう)に本格的に着手したのは、和同開珎からであると見て間違い無いです。

和同開珎の鋳造は、708年に開始されました。

唐の開元通宝にならって作られました。
※開元通宝は、621年に初鋳された。

それまでの日本では、米や布などが、通貨の代わりに使われていました。

 

人々が通貨に対する価値を認めないと普及することはない

現代に生きる私たちは、何の疑いもなく生まれた時から通貨を利用できる環境にいるため、実感しにくいのですが、通貨はそもそもある一定の条件を整えないと流通しないものなのです。

通貨が流通する最低条件は、人々が通貨の価値を認めることにあります。

当然の話なのですが、通貨に価値があると認識するからこそ、売買の代金として通貨を受け取ることができます。

通貨の価値が認められていなければ、誰も通貨は受け取りませんし、そうなれば必然的にモノとモノの交換しかできなくなります

 

朝廷(政府)は通貨を普及させるために様々な制度を制定する

本当に人々が商取引に使えることを実感できないと、なかなか通貨の使用は広がりません。

当時の人々は通貨という存在を目にするのが初めてだったので、価値を認めることが難しく、最初は通貨を受け取っても、それを再利用できるかどうか半信半疑だったはずです。

そのために、朝廷は様々な方策を行いました。

 

法や制度を定め徐々に貨幣制度を普及させた

711年に、『穀6升を銭1文』と定め、同年には、通貨の偽造を防ぐために、私鋳銭の罪法が定められました。

さらに、銭を貯蓄した人へ、銭をたくさん集めれば位階がもらえるという制度である『蓄銭叙位法(ちくせんじょいのほう)』を定めました。

712年には、官用の旅行者に銭貨を携帯させます。

さらに同年に、調を銭で収める基準を定めます。
※この基準は、銭5文=布1常でした。

銭で納税ができるようにすれば、銭の使い勝手がさらに良くなると考えたからです。

713年には、郡領を任せる条件に6貫以上の蓄銭が加えられます。

さらに、富豪の家に対し、旅行者が銭を持っている場合に、米を売るように命令も出しました。

このような施策が功を奏し、徐々に貨幣制度が人々に根付いていきました。

 

新しい貨幣政策に失敗し貨幣の信用は失われていく

初めて和同開珎を鋳造し、日本にもようやく通貨が普及しはじめてから約50年後、朝廷はとんでもない貨幣政策をしてしまい、そこから長い年月をかけて、徐々に日本の通貨は信用を失い、最後にはほとんど普及しなくなってしまったのです。

 

実物の価値とかけ離れた価格設定にしてしまい人々は疑問を抱く

日本で初めて貨幣が普及しはじめてから約50年後の760年、朝廷は、『万年通宝』という新しい貨幣の鋳造を開始しました。

万年通宝とは、和同開珎とほとんど変わらない材質にも関わらず、万年通宝1枚 = 和同開珎10枚の価値があると定めた通貨のことです。

似たような二つの銭に10倍の価値の開きがあるとなると、当然ながら人々はその価値に疑問を抱きます。
『お札より硬貨の方が価値がある?』貨幣と紙幣の違いと中央銀行の役割の中でもお伝えしましたが、現代の紙幣とは違い、貨幣は実物資産として扱われております。

この万年通宝の鋳造をきっかけに、せっかく定着しかけた貨幣経済は大きく混乱することになり、誰もが万年通宝の価値に疑問を持ち、設定価格どおりの交換には応じなくなっていきました。

 

胴の不足を補うために価格設定を高くした

ではなぜ、朝廷がこのような無謀なことをしたのかというと、材料となる胴が不足していたからなのです。

胴が足りていないので、必要量の貨幣鋳造ができません。

そのため貨幣の価格設定を高くし、鋳造量を減らそうとしたのが主な要因でした。

 

実物資産の価値は変えることはできない

ほとんど同じ材質であるにも関わらず、10倍の価値をつけるというのは無理があります。

当然ながら、この万年通宝のシステムは根付かず、わずか5年で鋳造が中止されました。

やがて、万年通宝は和同開珎の10倍ではなく、同じ価値として扱われるようになり、朝廷もそれを追認せざるを得なくなってしまいました。

 

万年通宝から始まった通貨への不信はやがて崩壊へと向かう

貨幣政策の失敗は万年通宝だけにとどまらず、ここから数百年もの間に様々な失敗を繰り返しました。

朝廷は、奈良時代から平安時代にかけて、都合のいい12種類の通貨を発行しました。

しかし、新しい通貨を発行するたびに、万年通宝のような無理な価格設定をしたために、人々の間で、貨幣の信頼はなくなっていき、銭離れが起きるようになります。

そして、958年の乾元大宝(けんげんたいほう)を最後に、朝廷は銭の鋳造をやめてしまいます。

その後、日本は、米と布を通貨の代わりとする時代に逆戻りしてしまい、これが平安時代の末期まで続くことになるのでした。

 

まとめ

  • 708年の和同開珎から日本の通貨の歴史は始まった
    人々が通貨に対する価値を認めないと普及することはない
  • 朝廷(政府)は通貨を普及させるために様々な制度を制定する
    法や制度を定め徐々に貨幣制度を普及させた
  • 新しい貨幣政策に失敗し貨幣の信用は失われていく
    実物の価値とかけ離れた価格設定にしてしまい人々は疑問を抱く
    胴の不足を補うために価格設定を高くした
    実物資産の価値は変えることはできない
  • 万年通宝から始まった通貨への不信はやがて崩壊へと向かう

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