経済とお金の奪い合いで戦争が起こる?戦前の日本の経済成長と権益拡大は欧米諸国との対立を生んだ

経済とお金の奪い合いで戦争が起こる?戦前の日本の経済成長と権益拡大は欧米諸国との対立を生んだ

明治維新以降、世界的にはアジアの小国に過ぎなかった日本が、第二次世界大戦が始まる頃には、欧米各国と肩を並べるかと思われるほどに日本経済は急激な成長を遂げました。

しかし、日本が成長するに比例して、欧米各国は日本の存在を煙たがるようになり、様々な国との対立が生まれます。

日本が輸出を伸ばすことで、欧州が制していた市場を奪い、土地の権益などでもアメリカや中国などとも対立が生まれるようになりました。

それに抵抗する日本は、やがて国際的に孤立してしまうことになるのです。

そこで今回は、世界大恐慌あたりから急激に輸出を伸ばせた理由やそれによるイギリスとの対立、南満州鉄道の権益争いや満州事変が起こり国際的に孤立してしまった経緯などを見ていきます。

いつの時代も、歴史が動く時は、経済とお金が絡んでいるのです。

日本の輸出拡大と経済成長が欧州各国(特にイギリス)との対立を深める

明治維新から第二次世界大戦までの70年間で、日本の実質GNPは約6倍実質賃金は約3倍に増加しました。

しかし、日本の経済成長は、欧米諸国との間で経済対立を生むようになります。

日本は、産業の近代化によってこれまで欧米が持っていた輸出シェアを奪っていき、特にイギリスとの間で深刻な経済対立を生むことになり、この対立は、世界大恐慌を機に一気に過熱しました。

 

世界大恐慌からの立ち直りの早さと円安で輸出のシェアを奪う日本

世界大恐慌により、イギリス経済も日本経済も多大な打撃を受けることになります。

1929年から1931年の間で、日本の輸出は半減してしまいましたが、日本経済は、他の先進国よりもかなり早く回復し、1932年には世界大恐慌前の水準にまで戻ったのです。

これは、円安にすることで輸出を盛んにしたことが成功したためです。

 

世界大恐慌の前から輸出製品の品質向上に励んでいたから回復が早かった

当時の日本は、国を挙げて輸出製品の品質向上に励んでいました。

それは、世界大恐慌の前に、深刻な不況に陥ったことが影響しています。

第一次世界大戦により、爆発的に輸出が増加しましたが、それは欧州諸国の工業が低迷した影響が強かったため、それが回復するにつれ、日本の輸出は急激に減少していきました。

それに関東大震災が追い打ちをかけ、日本は産業を立て直すために輸出促進に励んでいたのです。

もともと日本の製品は、価格こそ安かったのですが、粗悪品と非難を受けるを受けることも多かったのです。

そうしたことを教訓に、厳しい品質検査を行うことで、品質の向上に成功し、世界大恐慌のあたりから急激に価格と品質で競争力が増していったのです。

 

急激な円安が輸出に拍車をかけ輸出を伸ばし続ける

円安も日本の輸出に拍車をかけます。

日中戦争・日露戦争頃から日本は急激な円安状態になっていたが、政府はこれを放ったらかしにしました。

そのため、円の価値は、1929年には1ドル = 約2.5円だったのが、1933年には1ドル = 約5円にまで低下し、円の価値は半値になったのです。

ドルと円の歴史を振り返る『今では考えられない為替相場』を見ていただいても分かる通り、現代の相場観では考えられないことなのですが、当時はこのようなことが起こっていたのです。

その円安を背景に、日本は輸出に拍車をかけていき、インドや東南アジア、オーストラリアなどの欧米植民地に対して、急激に輸出を伸ばしました。

 

世界の覇者イギリスをも飲み込むほどに成長する日本の輸出

鎖国の解除(開国)と明治維新が現在の日本経済の基盤を作った『日本は今も昔も輸出大国』の最後でも少し触れましたが、当時の日本の輸出の主力になったのは綿製品でした。

上記のように、世界大恐慌後に日本の輸出は急激に増加し、1933年には綿製品の輸出で、イギリスを追い抜かします

これは、世界の覇者であるイギリスにとって非常に面白くないことです。

 

綿製品はイギリス経済を支えていた産業でありそれを日本に抜かれた

イギリスにとっての代名詞は綿製品でした。

産業革命によって、綿工業の動力化に成功し、その経済力で世界の覇者となりました。

19世紀から20世紀にかけての世界経済の発展は、イギリスの綿製品を中心としたもので、20世紀初頭の世界貿易において、綿製品などの割合は20%も占めており、イギリスのシェアはその半分に近いものでした。

そのイギリス経済を支えている綿製品が日本に抜かれたのですから、イギリスの経済には大打撃です。

 

日本に圧力をかけシェアを奪い返そうとし日本と経済摩擦が起きる

当時のインドはイギリスの植民地で、イギリスの工業が下り坂になっていても、綿製品をインドに売ることで、イギリスの経済を支えていました。

そのインドの市場を日本に奪われてしまったのは、イギリスにとって特に悩ましいことでした。

これを解決するために、イギリスは輸入規制(ブロック経済化)を行います。

イギリスの植民地であるインドは、要望に応えるために、1930年に棉業保護法を施行します。

これは、綿製品に対して、イギリス製品とその他の国の製品の関税に差をつけることで、イギリスを有利にするというものです。

この関税は年を追うごとにエスカレートし、最終的には、イギリス製品は15%、その他の国の製品には20%だったのが、1933年には、イギリス製品は25%、その他の国の製品は75%にまで差がつけられました。

これは、日本が不利になるように狙い撃ちにしたものでした。

しかし、日本も黙ってはおらず、インドの重要な輸出品である綿花の輸入をストップします。

これにより、インド経済は大打撃を受け、この状態を解消したいインドは、日本との調整を行い両者は一旦和解したように思えましたが、イギリスの横やりは止まらず、結局、経済摩擦は解消されませんでした。

 

満州の権益を持っている日本はアメリカや中国とも対立を深める

イギリスとの本格的な経済対立が始まった頃、日本が満州、中国の市場に本格的に乗り出します。

すると、今度はアメリカとも経済対立を起こすようになりました。

中国の権益が欲しいアメリカにとって、日露戦争が起こっている時から、満州は絶対に勝ち取りたい地域でした。

日露戦争でロシアが満州に侵攻しましたが、そこで日本に敗れました。

それと同時に、アメリカは満州獲得への野心を膨らましていました。

 

満州事変の背景にはそれぞれの国の経済的な問題が絡んでいる

アメリカの満州への野心を裏腹に、1931年に満州事変が起き、日本は満州全土に兵を進め、満州国を建国します。

満州事変と聞くと、政治的、社会的な侵略と思われるかもしれませんが、歴史が動く時は必ず経済的な背景があります

この満州国の建国に関しても、南満州鉄道の利権争いが発端になっています。

 

南満州鉄道は中国の大動脈であり日本が権益を握っていた

日露戦争に勝利した日本は、南満州鉄道の権益を獲得しました。

南満州鉄道は、中国の物流の心臓部であり、中国からしてみればこれは自国の大動脈を日本に握られているわけです。

中国は19世紀以来、欧米諸国から食い物にされ、様々な権益を奪われてきました。

1912年に清朝が倒れ、孫文を指導者とする中華民国が建国され、それらの権益を取り戻すことを政治目標とし、色々な運動が始まります。

もちろん、南満州鉄道の権益を持っている日本とも対立することになります。

 

日露戦争で勝ち取った権益を簡単に渡すわけにはいかない

日本は、南満州鉄道だけでなく、鉄道施設のある場所の権利も譲り受けており、都市の行政権も握っていました。

この鉄道施設のある場所には、豊富な埋蔵量を持つ炭鉱もあり、国を挙げてギリギリの状態でなんとか日露戦争に勝利した日本にとって、これは簡単に中国に返還できるものではないのです。

しかし、中国側からしてみれば、他国同士が勝手に武力を背景に強引に奪い取っていった権益であり、それは返してもらわなければならないという気持ちでした。

 

中国(アメリカ、イギリスも)は強引なやり方で権益を奪っていく

なかなか南満州鉄道の権益を返さない日本に対して中国は、離反行為にも関わらず、1924年に東三省交通委員会という鉄道会社を立ち上げ、南満州鉄道に並行して走る鉄道の建設を始めたのです。

当初日本は、中国にはまだ鉄道を作り運営する技術とお金はないと踏み静観していましたが、裏では東三省交通委員会には、イギリス、アメリカが出資をしていたのです。

これに腹を立てた日本(離反行為だったので)は、1928年に当時満州を支配していた張作霖を爆死させてしまいます。

しかし、これを機に、東三省交通委員会は大幅に進むことになります。

中国の鉄道運営の技術は低かったものの、運賃が安く、さらに、南満州鉄道(日本側)を利用する業者に高い税金が課せられたりすることで、南満州鉄道の収益は4分の1にまで落ち込みました。

 

日本の収益を守るために満州事変は勃発した

南満州鉄道は、日本にとって大陸進出の要であり、日本の収益の柱でもありました。

それと世界大恐慌やイギリスの輸入規制(ブロック経済化)も重なっていたこともあり、日本経済の行く末が心配されていた時期でもありました。

南満州鉄道に並行した路線を作らないという覚書を、清と交わしていることから、中国側に抗議しましたが、全く意に介しませんでした。

当時の満州には、不景気の日本本土で職を得られない日本の若者が大勢渡っていました。

その若者を中心に、中国の鉄道建設を弾圧する動きが活発化し、やがてそこに関東軍も絡んで、ついに戦闘が開始されます。

これが、1931年に勃発した満州事変なのです。

 

満州事変をきっかけに日本は国際的に孤立し国際連盟を脱退

満州事変をきっかけに、日本は国際的に孤立してしまいます。

1933年、ジュネーブで開かれた国際連盟の総会で、参加した44か国のうち、42か国が満州国の建国に否認の決議に賛成しました。

タイ(当時はシャム)が棄権票、日本以外の残りの42か国が賛成(建国否認に)をし、日本だけが反対を示した、圧倒的不利な状況で、これ以上はない国際的孤立になりました。

その時、日本は国際連盟からの脱退を表明しました。

そして、泥沼の第二次世界大戦(太平洋戦争)へと進んでいってしまうのでした。

 

まとめ

  • 日本の輸出拡大と経済成長がイギリスとの対立を深める
    世界大恐慌からの立ち直りの早さと円安で輸出のシェアを奪う日本
    世界大恐慌の前から輸出製品の品質向上に励んでいたから回復が早かった
    急激な円安が輸出に拍車をかけ輸出を伸ばし続ける
  • 世界の覇者イギリスをも飲み込むほどに成長する日本の輸出
    綿製品はイギリス経済を支えていた産業でありそれを日本に抜かれた
    日本に圧力をかけシェアを奪い返そうとし日本と経済摩擦が起きる
    満州の権益を持っている日本はアメリカや中国とも対立を深める
  • 満州事変の背景にはそれぞれの国の経済的な問題が絡んでいる
    南満州鉄道は中国の大動脈であり日本が権益を握っていた
    日露戦争で勝ち取った権益を簡単に渡すわけにはいかない
    中国(アメリカ、イギリスも)は強引なやり方で権益を奪っていく
    日本の収益を守るために満州事変は勃発した
  • 満州事変をきっかけに日本は国際的に孤立し国際連盟を脱退

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