リスク回避の自動売買システムが原因で株式史上最大の下落率を記録したブラックマンデーを引き起こした?
リーマンショック、アジア通貨危機、欧州通貨危機、ITバブル崩壊など、株式市場の歴史では、数え切れないぐらいの大暴落劇を起こしてきました。
その中でも、未だ破られることはない史上最大の下落率を記録したのが、ブラックマンデーです。
ところが、このブラックマンデーは、他の金融危機などによる大暴落とは内容が異なり、バブルが崩壊したわけでもなく、通貨危機が起きたわけでもなく、実体経済を反映しない、コンピュータによるリスク回避のための自動売買システムが原因だと言われています。
そこで今回は、ブラックマンデーが起きた当時の様子や、リスク回避のための自動売買システムはどのようなものだったのかなどを見ていきます。
ブラックマンデーが起きるまでアメリカの株式市場は過熱していた
インフレ対策による金融引き締めで、じり安基調に推移していたアメリカの株式市場は、1982年以降の利下げ局面で上昇にトレンドに向かいます。
それと同時に、格付けが投資不適格の債券であるジャンク債(ハイイールド債)にも投機的な資金が流れ込み、社債市場も活発になり、割安な企業を買収するブームが発生し、株価上昇の後押しをします。
このような地合いが何年か続き、1987年当時、アメリカ株式市場は過熱気味に上昇をしており、年初来のNYダウ平均株価は、8月までに40%以上の上昇率を記録していました。
1987年9月の利上げで株式市場は冷静さを取り戻す
アメリカ株式市場は上昇を続けていましたが、1985年9月のプラザ合意(プラザ合意は本当に必要だったのか?米ドル安にした意味と影響『円高不況からバブルの発生・崩壊』)により、歯止めがかからなくなったドル安も、なかなか収束しませんでした。
その一方で、日本は円高不況による金融緩和(円安ドル高になりやすい)も続けていましたが、市場はそろそろアメリカが金利を引き上げるのではないか、という雰囲気が徐々に市場に広がっていました。
そして、1987年9月、FRBが政策金利(公定歩合)を5.5%から6.0%へと引き上げると発表します。
利上げは、当時も現在も株式市場にとっては逆風となります。
ですが、利上げを市場がある程度織り込んでいれば(警戒していれば)株式市場が暴落することはありません。当時もそうでした。
何度か大幅な下落はしたものの、利上げを市場はある程度織り込んでおり、それほど大荒れとはならない状態でしたが、利上げを決定してから約1ヶ月後、株式市場は歴史に名を刻むほどの大暴落が起きたのです。
アメリカ株式史上最大の下落率-22.6%を記録したブラックマンデー
1987年10月19日月曜日、アメリカの株式市場の歴史が変わる、ブラックマンデーが起きます。
その日のNYダウ平均株価は、前週末比508ドルの大暴落、下落率は22.6%を記録します。
これは、1929年10月の株価大暴落を超える、58年ぶりに記録を塗り替えた史上最大の下落率で、2016年現在でも未だ記録は破られていません。
ブラックマンデーが起きた日のS&P500の指数も20%を超える下落率で、ナスダック総合指数は11.3%の下落に止まりましたが、これは売り注文が殺到しすぎて多くの銘柄で売買が成立しなかっただけです。
世界大恐慌時にも元祖ブラックマンデーと呼ばれる暴落があった
実は、この1987年10月19日月曜日に起きたブラックマンデーより以前の、1929年10月28日月曜日にも、アメリカでは元祖ブラックマンデーと呼ばれる、大暴落を記録した日がありました。
この日の下落率は、12.8%という当時としては最大の下落率を記録し、しかもその翌日にも11.7%の下落を記録し、この日はブラックチューズデーと呼ばれています。
参考までに、以下は、NYダウ平均株価の下落率ランキングです。
- 1987年10月19日:-22.6%(ブラックマンデー)
- 1929年10月28日:-12.8%(元祖ブラックマンデー)
- 1929年10月29日:-11.7%(ブラックチューズデー)
- 1929年11月06日:-9.9%
- 1899年12月18日:-8.7%
ブラックマンデーは実体経済を反映した動きではなかったので急反発した
上記のランキングを見ても分かる通り、1929年の大暴落の連続は世界大恐慌の影響により、実体経済を反映した株価の動きとなっています。
それに対して、1987年のブラックマンデーは、景気の後退を伴う大暴落ではありませんでした。
その証拠に、ブラックマンデーの翌日のNYダウ平均株価は+5.9%の反発を見せ、さらにその翌日には+10.2%の大暴騰を記録するなど、大量の買い戻しが入っています。
結果的にNYダウ平均株価は、その後もジリジリと上昇していき、約2年後には、ブラックマンデー以前の高水準に株価は戻っていったのです。
日本も例外ではなく、ブラックマンデーの翌日、日経平均株価が前週末比-14.9%(3836円48銭安)を記録しましたが、その翌日には前日比+9.3%(2037円32銭高)の急反発をみせました。
これは明らかに、1929年の実体経済(世界大恐慌)を反映した大暴落とは異なり、1987年のブラックマンデーは何か違う要因があったのだと考えることができます。
当時のアメリカは懸念される材料は多くあったがブラックマンデーが起きるほどではなかった
ブラックマンデーが起きた当時、アメリカの企業の株価は割高な水準にあったことは間違いありません。
株式市場の割安割高の水準を見る際に用いられるPER(株価収益率)も、当時は23倍程度(15倍程度が中間)と高い平均レベルで推移していました。
さらに、当時のアメリカ経済は、双子の赤字とドル安が市場を不安にしていました。
ドル安が進む中では、金利の引き上げをしなくては海外資金がアメリカに集まらないので、高金利政策を続けなくてはいけません。
しかし、金利高が続けば企業業績を圧迫しますので、株式市場にとってはマイナスの材料です。
ですが、これらの材料を合わせても、ブラックマンデーによる大暴落が起きたことを説明するには不十分すぎます。
リスクヘッジのための自動売買システムが大暴落を引き起こした
ブラックマンデーが起きた原因として一番適切と思われているのは、アメリカの利上げや経済状況などの不安心理が募っていたところに、何らかの市場が予想もしない売り圧力が加わったと考えられています。
その予想に最も有力なのが、ポートフォリオインシュアランスと呼ばれる、プログラム取引が影響しているのではないかと言われています。
ポートフォリオインシュアランスによるリスク回避を開発する機関投資家
オプション取引を理解すると、ポートフォリオインシュアランスを知ることができます。
オプション取引とは、将来の予め定められた期日に、特定の商品(原資産)を、現時点で取り決めた価格で売買する権利を取引することです。
※詳しくは、JPX(日本取引所グループ)のウェブページをご覧ください。
一般的には、株価が上昇すると予想すればコール・オプション(買う権利)を買い、下落すると予想すればプット・オプション(売る権利)を買います。
ところが、個人投資家とは違い、大量の株式を保有している機関投資家の場合は、株価が下落する場合のリスク回避のためにプット・オプションを買うことで一定の保険をかけるような投資方法を採用する場合が多いのです。
ブラックマンデーが起きた当時は、まだ資本市場が発達していなかったので、オプション取引によるリスクヘッジが不十分でした。
機関投資家は、理想通りの動きにより、リスクを回避できる商品の開発を求めていました。
プット・オプションの代替として、株式相場が下落すれば株価先物を売り、さらに下落すれば追加で株式先物売る、という手法などです。
このようなリスクを回避しようとする手法が、ポートフォリオインシュアランスなのです。
このアルゴリズムの下では、株価が上昇すれば先物でヘッジする比率を下げ、株価が下落すればヘッジ率を高める、という作業がコンピュータを使って自動的に行われます。
機関投資家でも予期せぬ売りが売りを呼びブラックマンデーが起きる
上記のようなコンピュータを使用し、自動的にリスクヘッジを行いながら売買する手法が、大手機関投資家の間で大きく広がっていきました。
そして、ブラックマンデーが訪れた時、コンピュータによるリスクヘッジのための売りが、市場を大混乱に陥れます。
多くの機関投資家が、ポートフォリオインシュアランスを採用していたため、売ろうとすれば買いが引っ込んでしまい、コンピュータにインプットしておいた想定された価格では売れなくなり、さらに低い値段でしか売ることができなくなったのです。
ポートフォリオインシュアランスによる売りが、他の機関投資家や個人投資家たちの売りを呼び、相場は下げ止まらなくなります。
そして、それまで理論的に示された価格推移は何の意味もなくなってしまい、リスク回避のためのコンピュータの自動売買システムがより一層リスクを増幅してしまう結果となってしまったのです。
ブラックマンデー当日の先物売り注文の半分が、この自動売買プログラムによる売りだったとも言われています。
この、ポートフォリオインシュアランスが、全てのブラックマンデーの原因だと言い切ることはできないかもしれませんが、投資に関するリスクヘッジやマネージメントの研究では、これらが最も影響していたのではないかという結果が出ているのも事実です。
市場のリスクを知りリスク管理の概念が生まれたのもこの時から
ブラックマンデーによる史上最大級の株価の大暴落は、世界中に市場リスクの恐怖を植え付けました。
投資家だけでなく、融資をして利益を稼ぐことから、動的な市場へ利益を求めることにシフトしつつあった銀行にとっても、ブラックマンデーは初めて遭遇した、予測できない危機を体験することとなりました。
現代では、どのような組織にもリスク管理という概念は必ずありますが、当時は、リスクへの懸念よりリターンによる恩恵だけを考えることが市場の空気を支配していました。
バンカース・トラスト(米銀行)はいち早くリスク管理を徹底していた
当時の銀行経営では、市場リスクに関して未熟な部分ばかりでしたが、市場より一歩早くリスク管理体制を徹底していたバンカース・トラストという銀行がアメリカにあり、ブラックマンデーが起きる前の1970年代に、戦略的に市場ビジネスへの特化を進めていました。
バンカース・トラストは、預金を集めて融資をする商業銀行ビジネスから、有価証券やデリバティブを用いて、金利やクレジットなどの市場リスクをとったりする投資銀行ビジネスへと、いち早く移行していました。
バンカース・トラストが開発したRAROCは現在でも形を変えて受け継がれている
その時、リスク管理として開発したのが、RAROC(リスク調整後の資本利益率)という概念です。
例えば、国債に投資する場合と個別銘柄の株式に投資する場合とでは、それぞれの商品のリスクを配慮しなければなりません。
それぞれの純利益を必要なリスク資本で割ったものがRAROCであり、その値を比較することにより、リスクの評価をする方法です。
このリスク管理法を徹底して現場で共有し、市場ビジネスに対応していたのでした。
日本の金融機関にもこうしたリスク管理法が1990年代半ばに定着し、独自に修正を加えて現在でも用いられています。
まとめ
- ブラックマンデーが起きるまでアメリカの株式市場は過熱していた
1987年9月の利上げで株式市場は冷静さを取り戻す - アメリカ株式史上最大の下落率-22.6%を記録したブラックマンデー
世界大恐慌時にも元祖ブラックマンデーと呼ばれる暴落があった
ブラックマンデーは実体経済を反映した動きではなかったので急反発した - 当時のアメリカは懸念される材料は多くあったがブラックマンデーが起きるほどではなかった
- リスクヘッジのための自動売買システムが大暴落を引き起こした
ポートフォリオインシュアランスによるリスク回避を開発する機関投資家
機関投資家でも予期せぬ売りが売りを呼びブラックマンデーが起きる - 市場のリスクを知りリスク管理の概念が生まれたのもこの時から
バンカース・トラスト(米銀行)はいち早くリスク管理を徹底していた
バンカース・トラストが開発したRAROCは現在でも形を変えて受け継がれている