欧州連合の通貨ユーロはジョージ・ソロスによるポンド危機・欧州通貨危機から誕生した?
欧州連合の通貨であるユーロは、現在では第二の基軸通貨とも呼ばれるほど、米ドルの次に重要な通貨として取引されています。
しかし、ユーロの歴史は非常に浅く、1999年に仮想通貨として導入され、2002年に現金通貨として発行されました。
そのユーロが誕生するまで、欧州各国との間には、様々な協定や通貨制度が設定されては崩壊を繰り返したり、一度は安定したかと思えた欧州通貨制度も、各国間の経済格差により欧州各国を巻き込む通貨危機に襲われたりしました。
その歴史の中でも、ジョージ・ソロスによるポンド危機は、金融市場の歴史に刻まれる有名な出来事となりました。
そこで今回は、ユーロ誕生までの欧州各国の通貨の歴史や、ジョージ・ソロスがなぜポンド売りを仕掛けたのかなどを見ていきたいと思います。
1992年ジョージ・ソロスの勝利に終わったイギリス・ポンド危機
世界中の外国為替取引の中心地であるロンドン市場。
1992年、そこでジョージ・ソロス率いるヘッジファンド(クウォンタム・ファンド)が、イギリスの通貨であるポンドを売り浴びせ、それに追従し、他の市場参加者も売りにまわります。
英中銀(イングランド銀行)は利上げやポンド買いの介入などの必死の抵抗も虚しく、ポンド危機に落としいれられました。
当時のポンドはレートを一定に維持しなければいけなかった
当時、欧州には通貨間の変動幅を上下2.25%に定める欧州通貨制度がありました。
その制度のため、参加国はその変動幅を超えないように政策金利の調整や為替介入を行い、レートを一定に維持することが求められていたのです。
レートを維持できなくなったイギリスは抵抗虚しく為替相場制に移行(敗北宣言)
ジョージ・ソロスにポンド売りを浴びせられた英中銀は、欧州通貨制度を守るために必死に介入をしたのにも関わらず、1992年9月、対西ドイツマルクに対する下落幅が2.25%を割り込みました。
ポンド売りを止め買いを誘導するために、翌日公定歩合を10%から12%に引き上げます。
それでもポンド売りは止まらず、英中銀はさらに公定歩合を15%まで引き上げるという異常な処置をしますが、それでもポンド売りは止まりませんでした。
そして1992年9月17日、為替レートを一定幅に維持できなくなり、イギリスは為替相場制に移行を発表します。
これは、事実上の敗北宣言となります。
実体経済とかけ離れた通貨は必然的に市場に崩壊させられる
イギリスの実体経済とはかけ離れた為替レートであることを市場に見抜かれ、欧州通貨制度を破壊された出来事となりました。
しかし、いくら市場に売りを浴びせられたとしても、先進国を代表するようなイギリスの中央銀行が市場に負けるはずはないと思えるのですが、プラザ合意は本当に必要だったのか?米ドル安にした意味と影響『円高不況からバブルの発生・崩壊』でも述べた通り、為替市場は、先進国が束になってもコントロールできないほど、巨大化しているのです。
ポンド危機も教訓にしイギリスはユーロ導入をしなかった
イギリスのポンドはかつて、世界の基軸通貨でした。
過去にも何度かポンド危機を経験しており、割高なポンドを維持することの難しさも重々承知していました。
1992年のポンド危機も教訓にし、1999年に欧州共通通貨ユーロが誕生した時、イギリスは不参加を表明したのです。
自由がきかない制度にまた縛られてしまえば、国内経済を犠牲にする政策を強いられるからです。
欧州共通通貨(のちのユーロ)は第二次世界大戦後から計画されていた
欧州は1920年代から共通通貨への思いがあり、第二次世界大戦後に為替レートの安定性と必要性を強く意識し始め、1950年代に様々な共同体(組織)を発足させました。
そして、1970年に経済通貨同盟への計画をまとめた、ウェルナー報告が公表されます。
ウェルナー報告とは、固定為替相場から10年後の欧州通貨統合を目指した計画です。
しかし、ニクソン・ショックやオイルショックによる混乱で、それは一旦保留となってしまいます。
スミソニアン協定はすぐさま終焉してしまう
欧州通貨統合は保留になり、欧州主要6カ国は、スミソニアン協定において、通貨の変動幅が上下2.25%の幅までの変動に設定されます。
主に対ドルの変動幅を、設定された通りに抑えるための独自のシステムを導入します。
しかし、1973年の変動相場制への移行(ニクソン・ショックの影響)やオイルショックなどの外的要因で、経済状況が悪化し、各国通貨のにも様々な影響が出てしまい、多くの国がスミソニアン協定を脱退し、スミソニアン体制は維持できなくなってしまいました。
欧州通貨制度の誕生が欧州諸国間の通貨安定を一時的にもたらす
不安定な為替相場の状況を抜け出すために、ドイツとフランスが中心となり、ウェルナー報告の再検討が始まります。
それが、1979年に誕生した欧州通貨制度なのです。
この欧州通貨制度は、ユーロ導入前の通貨単位ECUという通貨バスケットを創設し、2国通貨間での為替変動幅を上下2.25%以内に抑えることを定めました。
※通貨バスケットとは自国通貨を外貨に連動したレートにする固定相場制。
※ECU自体は、通貨そのものではなく、当時の各国のGDPシェアや貿易シェアに基づいて設定された計算単位です。
各国間の経済格差が広がるにつれて欧州通貨制度は崩壊に向かう
欧州通貨制度の下で設定された為替相場メカニズムは、1983年以降、欧州各国間の為替レートに安定に貢献し、当時景気後退に陥っていたイギリスも、ポンドの安定化に期待し、1990年に欧州通貨制度に参加することにしたのです。
しかし、欧州国内では経済力の違いが目立ち始め、欧州通貨制度に暗雲が立ち込めます。
好調なドイツ経済と、不調なイギリスやイタリアなどとの経済格差は徐々に広がっていったのです。
その格差は、イギリスのポンドやイタリアのリラは、ドイツのマルクに対して大幅な切り下げを必要とし、為替変動幅を正当化できない水準まで達します。
ジョージ・ソロスを中心に為替市場は、そのファンダメンタルズからかけ離れた為替レートに目をつけたのです。
ドイツの東西再統一で欧州通貨制度の崩壊とポンド危機は決定的になった
欧州通貨制度の安定性を脅かし、ポンド危機を誘発させた要因には、1990年のドイツ東西統一が深く関わっています。
東ドイツと西ドイツの統一は、結果的に高金利政策を必要とし、利上げをすることでマルクを上昇させることになり、ポンドとリラとの乖離は広がりました。
ドイツの統合には財政支出と金融引き締めが必要だった
ドイツの統合には、東西の経済格差を埋める必要があり、その際に、東西のマルクの交換比率を1:1にする政策を採用しました。
これは、政治的な判断による通貨制度で、産業競争力の弱い旧東ドイツ経済が圧迫される要因となることは誰の目にも明らかでした。
そうした中、ドイツ政府は、旧東ドイツへの積極的な支援を行うことで、財政支出が大幅に増加しインフレが発生したことにより、金融政策は引き締めをしなくてはいけない状況になりました。
その利上げは、米ドルに対するマルク高となり、欧州通貨制度に多大な影響を与えたのです。
ドイツの利上げはマルク買いポンド・リラ売りを加速させ為替レートを維持できなくなる
ドイツの統合による金融引き締め(利上げ)は、それまで低金利で売りポジションを蓄積していたマルクの状況を一変させました。
マルクに買いが殺到し、相場上昇の一途をたどる中、相対的に高金利で割高水準にあった、ポンド、リラなどに売りが殺到します。
冒頭でもお伝えした、ジョージ・ソロス率いるクウォンタム・ファンドは、こうした為替市場の動きをじっくりと見極め、ポンドに狙いをつけたのです。
ポンド危機から始まった通貨危機は欧州各国に広がる
ポンド危機によって、イギリスとイタリアが欧州通貨制度から離脱した後も、欧州の為替市場では混乱が続きました。
ドイツと経済格差が大きいと予想されていた、スペイン、ポルトガル、アイルランドなどの国が、通貨売りを浴びせられました。
1993年に入り、ペセタ(スペイン)に対する売りが特に強まり、その影響を受けるように、フラン(フランス)にまで投機筋の売りが見られるようになります。
その売りの攻勢は、デンマーク・クローネやベルギー・フランにまで広がり、1993年7月末に、マルクとギルダー(オランダ)以外の加盟通貨の上下変動幅は2.25%に耐えられなくなり、15%にまで一気に広げられました。
欧州通貨制度は事実上崩壊し共通通貨ユーロの導入に進む
欧州通貨制度の原則とされていた、上下変動幅2.25%が15%にまで広がったということは、事実上崩壊を意味します。
スミソニアン協定以来、欧州諸国で共有されてきた固定為替相場への理念は崩れてしまったかのように思えましたが、欧州は為替の安定を図ろうと、様々な機構を設けます。
1993年11月に発効したマーストリヒト条約(通貨統合と政治統合の分野)に基づいて、欧州連合を発足させ、1994年には、欧州通貨機構を設立し、共通通貨ユーロの導入に向かって進んだのです。
欧州通貨機構は、のちのECB(欧州中央銀行)の前身となります。
ドイツはユーロ導入を拒むが東西再統一のために妥協する
欧州でもはや敵なしといった強い通貨を持つドイツは、欧州の共通通貨に対して疑問を抱いていました。
マルクを捨てて共通通貨を採用すれば、通貨の面で他の弱い欧州諸国と並んでしまうからです。
第一次世界大戦後に起こったハイパーインフレの体験をしたドイツにとって、通貨安とは非常に懸念しなければならず、通貨は強くあるべきだという概念があります。
そのドイツに共通通貨の採用に迫ったのは、フランスでした。
ドイツの力がどんどん強まっていくのを嫌がるフランスは、ドイツを欧州共同体の中に封じ込めたいとの思惑から、ドイツの東西再統一の条件として、共通通貨の導入を迫ったのです。
導入当初のユーロは合理性に欠ける通貨だったがECBの誕生でなんとか維持している
1999年に導入されたユーロは、共通通貨であるのに、財政政策統一を伴うものではなく、その裁量権は各国がバラバラに維持したままという不安定な通貨でした。
それは、ドイツとフランスとの間の政治的妥協で強引に進められたためです。
ユーロは政治的通貨であり、経済合理性を備えた通貨ではなかったのです。
国際金融の世界では、固定為替制度、独自の金融政策、資本移動の自由という3つの政策は、同時に成立させることが不可能とされています。
これが正しいとするならば、自由な資本移動を促しつつ、欧州各国の中央銀行がそれぞれ独自の金融政策を行いながら固定相場制を維持する欧州の共通通貨ユーロは、継続不可能なのです。
そのため、各国が金融政策判断を欧州通貨機構の後継機関のECB(欧州中央銀行)に委ねることで、初めて成立することになったのでした。
実は欧州通貨危機は北ヨーロッパでも起きていた
欧州通貨危機は、西ヨーロッパでの出来事として認知されていますが、実は、北ヨーロッパでも同様の通貨危機が襲っていたのです。
1992年のスウェーデンでは、政策金利を500%に引き上げなければならいほど苦しい状況に追い込まれていました。
このありえない金利政策をしたのには、スウェーデン・クローナが、欧州通貨制度で定められた上下変動幅2.25%の下限を割り込むことを避けるための処置でしたが、スウェーデンもイギリスやイタリアと同じく、この欧州通貨制度から脱退することになりました。
フィンランドの通貨危機が欧州通貨危機の前兆だった?
フィンランドも同じように、通貨の売り圧力に晒されることになります。
フィンランドに関しては、欧州為替制度に参加していませんでしたが、フィンランドの通貨であったマルカはユーロ導入前の通貨単位ECUに固定化していました。
そのレート維持が厳しくなり、1991年にマルカの大幅切り下げを行いました。
フィンランドは、1991年のソ連崩壊により輸出の急減で、欧州経済の中では最も厳しい経済状況にあったことで、ポンド危機よりも早く、通貨危機に襲われました。
一説には、このフィンランドの通貨危機が、欧州諸国を巻き込む通貨危機の前兆であったとの見方もあり、危機の前兆は最も脆い国(場所)から発生する、という説は、頭に入れておくべきことではないでしょうか。
まとめ
- 1992年ジョージ・ソロスの勝利に終わったイギリス・ポンド危機
当時のポンドはレートを一定に維持しなければいけなかった
レートを維持できなくなったイギリスは抵抗虚しく為替相場制に移行(敗北宣言) - 実体経済とかけ離れた通貨は必然的に市場に崩壊させられる
ポンド危機も教訓にしイギリスはユーロ導入をしなかった - 欧州共通通貨(のちのユーロ)は第二次世界大戦後から計画されていた
スミソニアン協定はすぐさま終焉してしまう
欧州通貨制度の誕生が欧州諸国間の通貨安定を一時的にもたらす
各国間の経済格差が広がるにつれて欧州通貨制度は崩壊に向かう - ドイツの東西再統一で欧州通貨制度の崩壊とポンド危機は決定的になった
ドイツの統合には財政支出と金融引き締めが必要だった
ドイツの利上げはマルク買いポンド・リラ売りを加速させ為替レートを維持できなくなる - ポンド危機から始まった通貨危機は欧州各国に広がる
欧州通貨制度は事実上崩壊し共通通貨ユーロの導入に進む
ドイツはユーロ導入を拒むが東西再統一のために妥協する
導入当初のユーロは合理性に欠ける通貨だったがECBの誕生でなんとか維持している - 実は欧州通貨危機は北ヨーロッパでも起きていた
フィンランドの通貨危機が欧州通貨危機の前兆だった?