鎖国の解除(開国)と明治維新が現在の日本経済の基盤を作った『日本は今も昔も輸出大国』
私たちが生まれた時から現在まで、当たり前のように、税制などは一つの政府・国家が管理し、好きな職業に就き、土地なども自由に売買できます。
そして、今でも日本は豊かな富を持つ、経済大国であり輸出大国です。
その、一つの国である日本の基盤を作ったのは、今から約160年前のペリー(黒船)来航から始まったのです。
もしその時、ペリーが来航せず、開国もせず鎖国したままで、江戸時代が続いていたら、今の日本はどうなっていたのでしょうか?
そこで今回は、日本の経済を大きく発展させた出来事(明治維新など)と、開国した当初、日本は一体何を輸出していたのかを見ていきます。
黒船の来航による開国がその後の日本経済を大きく発展させた
1853年、アメリカのペリー提督による『黒船』が、日本との交易を求め、横浜の浦賀沖に来航しました。
この出来事が、日本を開国させ、江戸幕府の終焉と明治維新をもたらしたことは、歴史の教科書で誰もが学習したことです。
遂に鎖国を終わらせざるを得ない状況になる日本
黒船の来航は、アヘン戦争の経緯を知っていた幕府や知識人たちは、ついに日本にもその時が来たかと思ったのです。
江戸時代の日本は鎖国していましたが、海外の情報を全く遮断していたわけではありません。
長崎、琉球、対馬、松前の4つのルートから海外の情報が入っていましたし、朝鮮とも定期的な通信もしており、清とも国交がありました。
また、西欧で唯一国交があったオランダからも、世界の情勢が入っていました。
アヘン戦争が終結した2年後、オランダ王から、日本は外国との交易の厳しい制限を緩和するべきとも言われていました。
世界経済が発展するにつれて取り残されていく日本は開国するしかなかった
当時の日本近海には、ロシアやイギリスの鑑船がたびたび出没し、トラブルになっていました。
それと同時に、欧米諸国がアジア各地を侵攻していることも知っていました。
しかし、欧米諸国がこれほど直接的に圧力をかけてきたのは初めてで、幕府は対処に困り、とりあえず回答を1年後に伸ばし、ペリーを引き取らせました。
その後幕府は東京湾に砲台を作り、ペリーの再度来航に備えましたが、とても太刀打ちできず、仕方なくアメリカとの和親条約を結びます。
これにより、200年続いた鎖国を解除したのです。
開国と共に江戸幕府は力を弱め大政奉還により終わりを迎える
アメリカとの通商条約は、最終的に関税自主権が認められず、治外法権を認めさせられるという不平等条約となります。
それに困った幕府は、朝廷に助けを求めましたが裏目に出てしまい、幕府は力を弱めていきます。
また、開国によって、それまで鎖国による貿易のうまみを独占してきた幕府の財源は、諸藩に流れ、西南諸藩は倒幕に動き出したのです。
そして、幕府が朝廷に政権を返す『大政奉還』が、幕末のクライマックスとなります。
一つの国家となった明治維新後の日本の経済は急成長を遂げる
明治維新後の日本経済は急成長します。
その最大の要因は内乱を早々に終息させ、統一政府を作ったことにあります。
これにより国内産業は革新し、外国は日本と安心して貿易をすることができるようになりました。
大政奉還には絶大な経済効果があったのです。
明治新政府は国を一つにする改革を行う
明治新政府がまず初めに取り組んだのが、強力な中央集権制度の確立でした。
近代国家を保つために、各地に分散していた徴税権を一つの政府に集約したのです。
江戸時代の日本は、大名各自が自分の領地を治め、幕府はその中の長に過ぎませんでした。
それまでの日本は一つの国家というよりは、それぞれが法律や制度、時には通貨も違うような、藩の集合体だったのです。
地租改正により農民に農地を解放した
次に、明治維新の際に行われた大きな改革が、地租改正です。
この地租改正は、その後の日本の社会経済に大きな影響をもたらしているのです。
江戸時代においては、農地は武士が所有していました。
地租改正で、その農地は国家に返納され、その後農民に無償で払い下げられました。
土地の所有権である地券という権利が認められ、農民が近代的な所有権を確立でき、この地券に応じて税金を払うことになったのです。
この地券は売買することもでき、これは現代における土地の所有権とほぼ同じシステムで、さらに、農民は土地の所有権を無料で手に入れることができたのです。
その土地はかなりの貨幣価値があり、売買も自由です。
この地租改正のおかげで、働き者の農民は、他の農地を手に入れて農業を拡大することもできましたし、農業を辞め転職するのも認められたので、農地を手放(売却)して他で働くという選択肢も与えられました。
優遇されていた商工業者と農民をフラットな状態にした
さらに、地租改正には大きなポイントがもう一つあり、それは、商業地にも地租をかけたことです。
江戸時代では、商工業者は年貢(税金)が農民よりはるかに優遇されていました。
これを明治の地租改正では、商工業者にも農民と同じぐらいの税を課すようにし、農民は相対的な税負担が軽くなりました。
これにより、農民の勤労意欲は大幅に増加し、実際に、明治維新から太平洋戦争までの農業生産は実質3倍に増加したのです。
明治以降の日本経済の急速な発展は、この農地解放による影響も大きいのです。
開国当初から現代のように輸出大国だった日本
鎖国を解除した日本は、海外への輸出も盛んに行われるようになりました。
開国当初は、あまり輸出は盛んに行われていなかったと思われがちですが、実は開国当初から日本はかなりの輸出大国だったのです。
その最大の輸出商品は、生糸です。
日本は、江戸時代からすでに生糸大国で、生糸を欧米に大量に輸出する生産力、技術力を持っていました。
格安で品質の良い日本の生糸は世界市場に大量に流れ込んでいった
ヨーロッパではフランスが生糸の一大生産地でしたが、蚕というのは飼うのが非常に難しく、頻繁に病気によって不作になることが多く、日本の開国時も、ヨーロッパの生糸が不作になっている時期でした。
最高のタイミングで日本が開国し、日本の生糸が世界市場に大量に流れ込んでいったのです。
さらに、アメリカの経済発展もありました。
当時、欧米の中では新興国だったアメリカでは、絹製品は贅沢品のためあまり需要はありませんでした。
しかし、国の発展とともに、絹製品の需要が増え、原料となる生糸を大量に求めるようになり、やがて20世紀初頭には、世界最大の生糸消費国となったのです。
ヨーロッパでは、生糸は品薄であり、必然的に日本の生糸を輸入することになり、格安で品質の良い日本の生糸は、欧米で重宝され、瞬く間に日本の重要な輸出産品となったのです。
日本の経済発展と共に農産物から工業品の輸出へとシフト
上記のように、開国してからまず日本の輸出品の主力になったのは、絹の原料である生糸でした。
その他にも、お茶などの農産物が挙げられます。
しかし、日本の産業界は、経済が発展するに伴い、農産物を売るよりも工業品を売った方が儲けが大きいと気づき、次第に軽工業品、綿製品などにシフトしていった。
そして、生糸の次に日本の輸出産業の主役になっていったのが紡績業です。
戦争特需と大胆な施工で綿工業はやがて日本の輸出の主力となった
第一次世界大戦中、産業が停滞した欧州諸国に代わって日本の工業は大躍進しましたが、その際に中心になったのは紡績業でした。
しかし当初、綿製品は日本の輸入品の中でとても多かったのです。
開国以来、日本は生糸の輸出を激増させていましたが、その一方で、機械化によって安くなった綿製品が外国から大量に入ってきていました。
そして日本の綿産業は壊滅状態に陥っていたのです。
当時の貿易は、輸入超過となっており、輸入品を減らすことは国家的な課題となっていました。
そこで、輸入品の中でも多くを占めていた、綿製品を日本で作ろうと考えたのです。
綿の原料となる綿花は、インドなどで安く大量に栽培されていたので、太刀打ちできませんでした。
しかし、その安い綿花を輸入して綿糸を作る紡績業ならば、日本でもやっていけると考えました。
政府と紡績会社は協力して、当時の日本では考えられないほどの、欧米並みの大工場を建設しました。
世界でも最大級の紡績機を導入した、大規模な工場を建設し、まだ出回りはじめたばかりの電灯も大々的に導入し、電力を利用して24時間操業を始めました。
これらの、大胆な施工が大成功を収め、それを見て、次々に新しい紡績会社がつくられ、綿工業がやがて日本の輸出の主力となっていったのです。
まとめ
- 黒船の来航による開国がその後の日本経済を大きく発展させた
遂に鎖国を終わらせざるを得ない状況になる日本
世界経済が発展するにつれて取り残されていく日本は開国するしかなかった
開国と共に江戸幕府は力を弱め大政奉還により終わりを迎える - 一つの国家となった明治維新後の日本の経済は急成長を遂げる
明治新政府は国を一つにする改革を行う
地租改正により農民に農地を解放した
優遇されていた商工業者と農民をフラットな状態にした - 開国当初から現代のように輸出大国だった日本
格安で品質の良い日本の生糸は世界市場に大量に流れ込んでいった - 日本の経済発展と共に農産物から工業品の輸出へとシフト
戦争特需と大胆な施工で綿工業はやがて日本の輸出の主力となった