オイルショックは急激なインフレ・高金利政策・不況・債務問題を引き起こした
オイルショックと聞けば、単純に石油価格の上昇、ガソリンの値上げなどの物価上昇をイメージする方が多いと思います。
しかし、当時、オイルショックで起きたのは、物価上昇などだけでは終わらず、新興国を中心に債務不履行(デフォルト)や新興国に投資(融資)をしていた先進国などに多大な影響を及ぼしたのです。
そこで今回は、オイルショックが起きた原因や、それで一体何が起こったのか?
なぜ、新興国を中心に多大な影響を及ぼしたのかを見ていきたいと思います。
OPECに価格決定権が移ったことでオイルショックが起きた
1973年に第一次オイルショック、1979年に第二次オイルショックが起き、この二つを合わせてオイルショックと呼ばれるようになりました。
このオイルショックが起きた要因は、1960年に結成されたOPEC(石油輸出国機構)の誕生で、石油価格決定の主導権を欧米から奪ったことにあります。
OPECとは、サウジアラビア、イラン、イラク、ベネズエラの産油国5カ国が結成した組織で、現在の加盟国は12か国となっています。
かつては石油メジャーが石油の価格を操作していた
第二次世界大戦後に石油需要の価格決定権を持っていたのは、大手国際石油資本である、エクソン、モービル、ソーカル、テキサコ、ガルフ、ロイヤル・ダッチ・シェル、BPの7社(石油メジャー)でした。
この7社は当時、セブン・シスターズ(7人の魔女)と呼ばれ、積極的な油田開発を進め、価格を段階的に引き下げ石油を安く仕入れたりと、石油消費国の利益を反映する方針を採用したことなどから、産油国の不満や反感が強まっていきました。
そうした中、1971年にOPECが石油メジャーと共同で価格を決めるようになり、その翌年には、石油採掘事業の権利が産油国に渡されたことが決まり、価格決定権が徐々にOPECへと移り始めるようになりました。
オイルショックとはOPECの石油価格引き上げたこと
1973年10月、第四次中東戦争が勃発すると、OPECはイスラエルに力を貸すアメリカに対して制裁を加えるため、石油価格を1バレル = 3.0ドルから5.12ドルへ引き上げると発表し、翌年1月に再び今度は大幅に引き上げを行い、1バレル = 11.65ドルとしました。
これが、第一次オイルショックです。
1978年のイラン革命により、イランの石油生産が停止したことを受けて、翌年1979年よりOPECは再び石油価格を1バレル = 28ドルまで引き上げました。
これが、第二次オイルショックです。
日本は第一次オイルショックで急激にインフレ率が上昇・金利引き上げ
第一次オイルショックでは、石油を中東に依存していた先進国の経済を脅かしました。
日本も例外ではなく、ニクソン・ショックから立ち直りかけていた経済を圧迫し、急激なインフレが発生します。
1974年の物価上昇率(インフレ)は23%を記録し、インフレ抑制策のために政策金利の引き上げ(公定歩合)が行われ、企業の設備投資などが落ち込み、景気後退に陥りました。
第二次オイルショック時は、第一次オイルショックの教訓が生かされとこで、影響は限定的に抑えることに成功しました。
オイルショックによるオイルマネーが米銀を経由し新興国に流れる
このオイルショックによる石油価格の上昇は、中東を始めとする産油国に巨額の米ドル資金を集めます。
しかし、産油国にはそれほど資金需要がないため、そのドルは米国の銀行に預金されました。
これをオイルマネーと呼びます。
その米国の銀行に行った蓄積されたオイルマネーは、米国の銀行はどこかに貸し出さなければいけません。
当時の米国の銀行の預金が向かった先は、開発投資金を求めていた中南米や東欧、アジアなどの新興国でした。
これは、前回お伝えした投資拡大と金融危機・崩壊は繰り返す?新興国の累積債務問題から証券化時代が始まったにもつながる出来事にもなります。
米銀に流れたオイルマネーはオイルダラーとなり世界中に流れる
米国の銀行に流れ込んだオイルマネーは、オイルダラーとなり、やがて世界中に流れていきます。
イギリスのユーロダラー市場を通じて、欧州や日本の銀行にも流れ、それらの主要銀行は競い合うように新興国などへの融資を開始しました。
その加熱する新興国への投資の最中、シティコープの会長は「企業は潰れることはあるが、国が潰れることはない」と言い放ちました。
しかし、数年も経たないうちに、当時の新興国は次々に債務不履行(デフォルト)に陥ったのです。
石油価格の上昇は物価上昇につながりインフレを起こす
石油価格が上昇すれば、その影響は瞬く間に他の商品や製品にも波及します。
石油の輸入を外国に頼らなければいけない日本は、オイルショック時に激しいインフレ(物価上昇)に襲われました。
先ほども述べましたが、1974年に消費者物価指数が前年比23%も跳ね上がりました。
当時、日本中がパニックになり、トイレットペーパーや洗剤などが買い占められ、スーパーなどの商品棚が空っぽになってしまう出来事は、教科書にも載っているほど有名な話です。
緩和的な金融政策を行っていたアメリカのインフレ率は急上昇
日本は、オイルショックで急激なインフレが起こりましたが、アメリカも同様に急激なインフレが起こりました。
1960年代から緩和的な金融政策(インフレが起きやすい)を続けているところに、オイルショックが起き、アメリカのインフレ率は急上昇しました。
FRB議長ポール・ボルカーにより徹底した金融引き締め政策に動く
その対策をして有名になったのが当時FRB議長であったポール・ボルカーです。
消費者物価指数が2ケタの上昇率を続ける中、1979年8月に就任したポール・ボルカーは、徹底した引き締め金融政策を採用します。
金融引き締め(利上げ)によりインフレは収まるが不況に陥る
金融引き締め効果で、アメリカの政策金利である短期金融市場のFF金利は、20%の水準に急騰し、その数ヶ月後には11%まで低下するといった乱高下を繰り返す動きをします。
市場は、金利の見通しが全くつかめず、大混乱となりましたが、最終的には高金利が物価上昇率を抑制し、1980年には12%を超えていたインフレ率が、1983年には3%台にまで抑えることに成功したのです。
しかし、その強引な金融引き締め政策は、副作用が強すぎました。
アメリカ国内の失業率が約11%に達し、激しい不況となります。
オイルショックによるアメリカの利上げが債務国のデフォルトにつながる
これらの二度にもわたるオイルショックは、世界中を大混乱に落としいれました。
産油国によるオイルマネーが新興国を中心に流れ込んだところまではいいのですが、その後原油価格の上昇で貿易収支の悪化や、先進国(アメリカと日本)のインフレ率の急上昇などの影響で、インフレ抑制のための高金利政策による不況や、新興国を中心とした債務国の利払い不能による債務不履行(デフォルト)を起こしてしまいました。
米ドルでの資金流入は金融政策一つで状況が変わり高金利政策は債務国を苦しめる
オイルショックによる影響を最も受けてしまった新興国の主な原因は、原油価格上昇が全てではなく、米ドルの存在も大きく関わっています。
それは、米ドルで資金が流入すれば、アメリカの金融政策次第で、状況が全て変わってしまうからです。
オイルショックにより高金利政策に動いたアメリカ、その高金利により、新興国を中心に債務返済を著しく困難にさせました。
それと同時に、新興国へ融資をし収益を稼いでいた大手米銀も厳しい経営環境に追い込みました。
まとめ
- OPECに価格決定権が移ったことでオイルショックが起きた
かつては石油メジャーが石油の価格を操作していた - オイルショックとはOPECの石油価格引き上げたこと
日本は第一次オイルショックで急激にインフレ率が上昇・金利引き上げ - オイルショックによるオイルマネーが米銀を経由し新興国に流れる
米銀に流れたオイルマネーはオイルダラーとなり世界中に流れる - 石油価格の上昇は物価上昇につながりインフレを起こす
緩和的な金融政策を行っていたアメリカのインフレ率は急上昇
FRB議長ポール・ボルカーにより徹底した金融引き締め政策に動く
金融引き締め(利上げ)によりインフレは収まるが不況に陥る - オイルショックによるアメリカの利上げが債務国のデフォルトにつながる
米ドルでの資金流入は金融政策一つで状況が変わり高金利政策は債務国を苦しめる